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願い

 ねむの木学園と名前をつけた、とにかく、手足にハンディキャップを持ち、精神におくれを持ち、家で、家族がめんどうをみることの出来ない子が、小学校、中学校に、通うことが免除される就学猶予という法のもとに学校に行かなくてもいいことを知り、私は、自分の幼い頃からなにかを学びたいという心と、小・中学は義務教育ではないの、その義務を放棄してしまうなんて、許せない、そんな思いつめた心から、又、自分が、自立できていることの申しわけなさみたいななにか、許せない心で日本にまだ、法律もなかった障害を持つ子のお家をつくってしまった。まだ、制度もないこの仕事は、許可を得るまでが大変、そして本当に大変だったのはこども達を受け入れたときからだったんです。

 めんどうを見てもらう職員さえ、どこで、どうさがしたらいいかわからない私。町の小学校から、分教場として、何人かの先生が、来て下さるようになったことの喜びと、とまどい。特に私は幸せな自由な教育を受けていましたので、なおざりの教師への怒り、考えに考えた末、事務職員も未だおちついていない時、学校の独立を考えてしまいました。
なにか一つ出来ればいいじゃないの。
 心が集中すれば、なにかが出来るのじゃないの。そんな学校あってもいいじゃないの。
 私の本当の心でした。

 海岸にかにがたくさんいるわけないのに、こどもから見せられた絵は、海と砂浜でした。砂浜に蟹がたくさん遊んでいました。
蟹をこの子は、みたことがない、すぐ感じました。「蟹ね、自分で書いたの?」きつい心の言葉でした。「ううん、先生が二つかいてくれて、これみたいにかきなさいっていたのよ」それは、素直な言葉でした。
 私は、率直答えたこの、その頭をなぜてあげながら、いかり狂っていました。その蟹は足が六本でした。ハサミもありませんでした。目玉は少し出っぱって二つ、知恵がおくれているから、足も足りない、はさみも足りない知恵おくれのこは、数がわからないから、わざと、おくらしたのでしょうか?
 「ちがうよ」言葉になりそうになったのを、ぐっとこらえました。
人間を尊重していない・・・お友達の谷内六郎さんに遊びに来てもらって、私たちは、放課後、美術クラブをつくりました。砂丘とカニなんて題をつけるから、束縛されるんです。自分の思ったまま、感じたまま、谷内さんも私も同じ意見でしたので、そばで別のことしながら絵をかく雰囲気をつくることにしました。二人とも、決して教えませんでした。

 ロックをかけたり、おかしをたべたり、ねっころがったり、それは、楽しいクラブでした。今も、ねっころがってかく習慣は残っていて、大きくなった男の子が大の字にうつぶせになって大きな紙に絵をかいていると、それだけで、いっぱいになるような気がします。○と□と△これだけは、はじめて絵をかく子の基本ね、私は幼稚部の先生達にいいます。

 或る日、例によって、谷内さんは、うたい、私はお菓子の支度をしていた時、花が一つ、その中にまり子さんが手を広げている絵が出ました。谷内さんも私もデターとさけびました。そして、その後、ドンドンとこども達は絵をかき出したのです。学校を、独立させて丸十数年みなさんのおすすめで、始めの頃、中頃、近頃となんとなく、わけて大切にしてある三千点あまりの絵を全部フィルムにとり、この一冊をつくりました。もう一冊つくりたいよ、私はいいます。これ落とすのかわいそうだよ、いいんです。ふえすぎます。スタッフはいいます。ツカ見本と色校が出来た時、この本がいとおしいと思いました。このこたちの絵は、ニューヨーク、パリ、スウェーデン、スイス、イタリー、ドイツ、と大きな展覧会をしていただき、国際交流をしています。「ねむの木学園は、絵の上手な子だけ選んで入学させるんですか」そう聞かれる時がよくあります。私は、胸をはって答えます。「いいえ、どの子もいっしょです。選んでなんかいません」

 こども達、次から次から入園してくる小さいこも私一人で、ワァーとさけぶような絵をかき出します。無限のこども達そして才能、いいですね。あなたの本箱に、ずっとおいて下さい。まり子の命と願いとありったけ愛が入ってます。

宮城まり子

「ねむの木子ども美術館」(1995年刊)より


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